HOME » 着物業界への道
[生年月日]
 1962年11月8日
[出身地]
 福岡県福岡市
[学歴]
 福岡大学 卒業
[趣味]
 父親業(2男2女の父)
[好きな作家]
 シドニィ・シェルダン
[経営者として影響を
 受けた人物]
 藤田田、孫正義
[座右の銘]
 人の喜ぶところに栄えあり

日本和装の挑戦 吉田重久
『日本和装の挑戦』
鶴蒔靖夫著
IN通信社発行
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Mr.フジイの海外奮奮記
サムライスタッフブログ 男きもの専門店SAMURAI
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博多やきとり〜よかろう門〜 赤坂にある
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NPO和服を世界遺産にするための全国会議主催の「黒紋付会&新年会」では、下記のサービスを検討しています。

 

 

脱ぎっぱなしサービスです。

 

 

 

某業者様にご協力をいただいて、こんなサービスを試験的に実施してみようと思っています。これが上手く運用出来れば、男きものの普及に役立つと思っています。料金は現在検討中で未定です。

 

 

 

昨夜も、蒲田村(当社の寮)で一杯飲んで帰りましたが、社員達は、とても楽しくしているようでした。共同生活ですので、問題も発生する可能性はありますが、寂しくないという点は大きいと思います。

 

 

 

役員達には、行く時には何か持って行くように伝えています。この何か?ですが「花より団子」と伝えています。つまり、米、パン、お酒、という意味です。現金も垢抜けた差し入れだと思います。<笑>

 

 

 

 

着物業界への道 No.6

 

 

北部九州に拠点を設けた後、鹿児島へ行こうかどうしようか?と考えていた頃です。当時は、九州新幹線がなく、鹿児島まで行くのに時間が掛かっていました。どうしようか?と悩んだ末、大阪への進出を決めました。

 

 

当時、長女2歳、次女4ヵ月という環境でした。

 

 

 

どうしても京都を開拓したく、京都では教室は無理だろうが、大阪は人口も多いし大阪で教室を開けば、京都の加盟店開拓も出来る。それより、この事業を九州だけで終わらせたくない!と大阪行きを決意しました。当時31歳

 

 

 

家内にも話しをし、買ったばかりの小さな新築マンションは、そのままにして大阪行きを決め、風邪をひいて熱がある子供達を車に乗せて大阪へ向かいました。

 

 

 

いまでも家内が言うのですが、いよいよ大阪に入る阪神高速の梅田出口のビルの真ん中を突き抜けた時のことを思い出します。そんな道の作りは見たことがなかったので、それが印象的でした。

 

 

 

そこから京都開拓を開始しました。

 

 

 

大阪到着の2日後の事務所開きの日は、あの阪神淡路大震災でした。

 

 

 

 

 


<着物業界への道>No.5

 

京都市内の電話帳をNTTで入手し、呉服問屋というページで住所を調べて、取引の申し込みの手紙を出して、福岡から車で京都まで行ったこともあります。

 

 

 

京都での滞在は、1週間ほどだったと思いますが、お金もなかったので車の中で寝て、朝は公園で顔を洗って業者を回ったこともありました。

 

 

 

ほとんどの会社は、受付の女性の段階で断られ、会っていただけた会社でも、あまり話しを聞いてくれず・・・と、そんな状況でした。しかし、その会社の2社ほどは、いまでは上位のお取引先です。

 

 

 

そんな状況だったので、「おもしろい!」と言ってくれた会社のY専務(当時)の話しが嬉しくてたまらず、色々とありましたが、その専務が社長になられ、その後に相談役になり、退任後、当社の理事として入社してくれた時には、本当に心強く嬉しかったことを思い出します。

 

 

 

こうして博多織の協力を得て、工場見学を2件〜3件で実施可能になった頃、初めての会社案内を作りました。当時の会社案内です。

 

 

 

 

 

制作:現当社常務の佐藤正樹/当時広告代理店経営者

 

 

 

当時は、織物工場への交通手段がなかったので、お客様をワゴン車でご案内する方式でした。10人乗りの中古のワゴン車を買い、それでご案内していました。いま考えると恥ずかしいようなものでした。

 

 

 

この時点で、帯工場見学、問屋見学、という仕組みがようやく出来上がった時期です。この頃、年間取扱高は8,000万円位だったと記憶しています。いまの100分の1以下です。

 

 

 


当社では、拠点の統廃合に伴い社員寮を開設しました。今年のテーマは”材”の集中です。一番大きなことは人材の集中です。地方から多くの優秀な人材が集結してくれ、これからが楽しみです。

 

 

 

この社員寮は、大田区蒲田(JR蒲田より徒歩3分)に設置しており、「日本和装シェアーハウス」という名称にしていましたが、入居した社員達の意見もあり、再度「蒲田村」に改名しました。既に、この名前でLINEのグループが出来ていました。

 

 

 

昨夜は、昼過ぎから飲んで食べてと楽しくやりました。

 

 

 

この料理は、仙台から来た社員(小野)が作ってくれた鍋です。

 

東京の社員(兵頭)も参戦、手土産のお酒です。急な誘いにも関わらず駆け付けてくれ嬉しかったです。

 

 

 

この蒲田村は、私の自宅から、徒歩、電車、徒歩のドアtoドアでも25分で到着するほどの距離です。実は、約20年東京で生活をしていますが、自宅から蒲田までの電車は初めて乗りました。家を出る時に家内から、こうして乗るのよ!と初めてのおつかい状態でした。<笑>

 

 

先頭車両で運転手と同じ目線で乗りました。

 

 

買い出しの中に、これだけの薬。もう病気は何でも来いです。

 

 

お酒は、他の役員(菅野常務)が届けてくれていたようで、すべて飲み乾しました。

 

 

 

<着物業界への道>

 

 

はじめは、着物だと思い、久留米絣の開拓に動いたのですが、創業した九州地方には「博多織」があります。その織物工場で工場見学が出来ないか?と動きました。朝倉郡、太宰府、筑紫野市など多くの工場を尋ね、色々と話しをしてやっと開拓が出来ました。

 

 

 

現金じゃないと取引はしない、工場に大勢で来られるのは困る、直販しているのを問屋(卸売業者)に見つかりたくない、こういう多くの制約の中でスタートしたのが「帯セミナー」でした。

 

 

 

当時は、帯だけで売れるのか?と業界の習慣から疑問の声も多く、私は問題ないと判断して取り組みました。おかげさまで、それが大ヒット。いまの当社の基盤と言っても過言ではありません。

 

 

 

しかし、借金はドンドン増え続け、もう動脈に注射針を刺して歩いているような状態でした。資金繰りと言っても、正規の金融機関との取引などは出来ない状態でしたので、サラ金、高利貸し業者通いの毎日でした。

 

 

 

しかし、この博多織のヒットから徐々に血が止まり始めました。当時26歳

 

 

 


1月1日から当社ホームページをリニューアルしましたが、何度もテストをしたにも関わらず、正しい表示が出来ず、担当者は、帰省先からアクセスしてアップロードをしてくれました。

 

 

特に、表示に苦労したのは、このページです。教室の検索方法を増やし、入力し易いようにリニューアルしました。

 

 

 

芸能人を起用すると、その契約の関係で”新年あけましておめでとうございま〜す”の瞬間は、このサイトのリニューアルで必死になっている裏事情があります。

 

 

 

 

<着物業界への道>

 

小売店と提携するなら、加盟店の開拓に苦労は少なかったと思います。しかし、それでは消費者にメリットがありません。その辺を拘り続けました。メーカーか卸売業者との提携しかないと必死になりました。

 

 

やったことのない仕事でもあったし、従来の舶来品の販売とは訳が違うし、なんと言っても私が若いから信用がない、この辺も苦労したことでした。

 

 

 

前号の続きですが、その先輩の家へ行き「おばちゃん着物を扱っているよね?どんな会社と取引しているの?」という相談から始めました。

 

 

 

「いや、いや、しげちゃん、おばちゃんは、最近は着物が売れないからやりよらんとよ〜=博多弁、でもね、取引先の専務がいい人だから話してみるね」この紹介が加盟店のスタートでした。

 

 

 

その翌週だったと思いますが、その会社へ連れて行ってもらい、当時の専務(後の社長→相談役)に話してもらいました。私は、45名の受講者名簿を風呂敷に包んで持参し話しをしました。この会社のインタビューは、こちらからご覧いただけます。

 

 

 

「(京都弁)吉田はん、あんた全く取引先がないのに教室をやってはんの?無料でやってどうしはるの?」と不思議そうな顔でした。私は、話し続け最終的に「おもしろい!」と言ってくれて取引が始まりました。これが、車の選び方を伝える「セミナー」の原点です。

 

 

 

しかし、もうその頃には、自宅の公共料金が払えず、ガスなど止められては開栓してもらうような状態でした。当時、私が独身だったので、そんな無謀なことが出来たのかも知れません。もちろん、クレジットカードは、既に使用停止状態でした。

 

 

 

しかし、この事業は、絶対に世の中から必要とされる事業になる!と信念をもって、もう行く所まで行こう!と決心して続けました。

 

 

そこから博多織の開拓でした。

 

 

 


元旦からCMがスタートしていますが、娘達から何回も見たよ!と言われています。YouTube の再生回数も伸び始めているようです。http://www.wasou.com でご覧いただけます。

 

 

今回のCMでは、見ると欲しくなる、着られるようになってから、北陸新幹線開通で金沢を舞台にしたこと、娘に勝つかも、など、今回のCMを担当したクリエイティブディレクター(電通)の思いがこもった作品です。

 

 

 

当社が初めてテレビCMを作ったのは、約20年前に福岡で放送したものでした。

 

 

 

そのCMは、リビングで電話をかけている女性、着付け始めたの?良いじゃない。無料?ますます良いわね〜というストーリーでした。当時、天神地下街のラジオコマーシャルをやっていた女性が出演した作品でした。

 

 

 

<着物業界への道>

 

手元の資金も底をつき・・・というより借金は膨らむばかりで加盟店開拓に苦労していた頃、取引を断られ続けて弱気なところに、おいしい話しでした。吉田さんが言っていることは分かるが、そんなこと無理でしょう?と金融品を紹介されて騙されたこともありました。

 

 

 

受講者募集広告の広告掲載予定日もあり、私自身の焦りもあったと思います。久留米絣にも訪問して工場見学をお願いしたり、藍染め工房の見学をお願いしたり、色んな所に話しに伺いました。当時25歳〜26歳でした。

 

 

 

「車に乗られない人に車の乗り方を伝え、車の楽しみ方を伝え、車の選び方を伝えたい」その説明を必死にしました。ご実家は、着物関係のお仕事なのか?どうして着物か?何を企んでいるのか?と、もう散々な時代でした。

 

 

 

そこで、高校時代の先輩のお母様が、着物関係の仕事をしていたことを思い出し、その先輩のお母さんのところへ相談に行ったことから道が拓けて来たように思います。

 

 

つづく

 

 


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