HOME » 人生の岐路
[生年月日]
 1962年11月8日
[出身地]
 福岡県福岡市
[学歴]
 福岡大学 卒業
[趣味]
 父親業(2男2女の父)
[好きな作家]
 シドニィ・シェルダン
[経営者として影響を
 受けた人物]
 藤田田、孫正義
[座右の銘]
 人の喜ぶところに栄えあり

日本和装の挑戦 吉田重久
『日本和装の挑戦』
鶴蒔靖夫著
IN通信社発行
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Mr.フジイの海外奮奮記
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スタッフブログ

博多やきとり〜よかろう門〜 赤坂にある
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療養を始めて23日で丸2ヶ月、この間にやり残していたことを少しずつやっています。

 

 

 

その1つが、船の給油です。じつは、免税券の期限が切れていましたので、燃料が入れられずに放置していましたが、やっと届きましたので、午後から行って来ました。

 

 

 

 

長い間船を放置していましたので、ロープが絞まっていて外れずプロに依頼しました。

 

 

hup1090265.JPG

 

 

この会社の社員の皆さん、驚くほど感じの良い人たちです。船の管理は、ここに任せるのが一番良いと思います。この会社のHPは、 ここ  からどうぞ。

 

 

 

 

そのスタッフの一人から、「オーナーブログ見ていますよ~」 と言われ、いよいよ止められないと思いました。

 

 

 

 

”自分も子供がいますので、ブログ参考になります・・・”と言われ、わが家の長男のことだな、恥ずかしいな~と思いながら、笑いでごまかしておきました。

 

 

 

 

 

ご心配をお掛けしております問題の長男ですが、少し勉強を始めました。

 

 

 

 

 

「俺も学生時代はやっていない、しかし、今がお前の1つの岐路だと思う。選択肢が少なくなるから勉強しろ」

 

 

 

この言葉に少し反応したようです。

 

 

 

 

しかし、あの男は優しいので、病気の父親が言っているので・・・と思いやりの心でやっていると思います。

 

 

 

 

人生の岐路  パート 17

 

 

 

丸の内に移転し、その一年後、私は、勝負に出ました。少し大袈裟ですが、私なりに勝負のつもりで、翌年の1月から京都へ行きました。

 

 

 

 

 

京都へ行くのが、そんなに大変なのか?と思われるでしょうが、この業界を制すためには、仕立てを追及しなければいけない、その為に自社縫製工場を作ろうと考えたのです。それが、日本和裁技術院 の発足でした。

 

 

 

 

 

いや、いや、これも大変でした。

 

 

 

 

仕立ては、すべて下請け工場へ依頼していましたので、それをやることについては、相当の反対意見もありました。

 

 

 

 

素人に分かるはずがない、そんな無茶な、色々なご意見を頂きましたが、これを通らずして日本和装はない。この位の思いで京都へ行きました。

 

 

 

 

 

素人がやるのだから、通う程度では成功はない。毎日品物と向き合ってから始まる・・・こういう思いでした。

 

 

 

 

和裁士募集、こんな広告で反応があると思っていたところ、全くという程のものでした。本当に散々な結果でした。

 

 

 

 

そこで、和裁の先生達にお願いしながら、今のスタックが集まり始めました。

 

 

 

 

私は、その技術が分からないので、毎朝、毎朝、施設と周囲の道の掃除をやっていました。

 

 

 

 

事故がないように、綺麗な縫製が出来るように、そんな思いでした。

 

 

 

 

 

その約2年後、今の 「糸の匠センター」 の開設に辿り着いたのです。

 

 

 

 

縫製基準を作り、その技術を磨く、この目的で作った 日本和裁技術院 は、技術者や業界の皆さんからのご協力を頂いて、今の姿にまで成長することが出来ました。

 

 

 

この勝負は、私の人生の岐路の大きな1つでした。

 

 

 

 

次号は、株式上場へ向かって舵をきった、という場面に入りたいと思います。


歯の治療の帰り道に、近くの電気店へ行きました。最近、2駅以上離れない癖がついたようです。

 

 

 

その電気店で驚いたことがありました。プリンターの価格です。なんとエプソンで 7,900円 です。私の感覚では、安くても 19,000円 でしたので、この価格には驚きました。

 

 

 

 

デフレの時代といわれますが、それを自分で確認して驚いたことの1つでした。時々、電気店などにも行って確認しながら感覚を変えないといけないですね~

 

 

 

ちなみに、65型のテレビは、私の感覚では 90万円 でしたが、実際は、55万円でした。

 

 

 

 

人生の岐路  パート 16

 

 

 

もう39歳まで綴らせていただきました。あと約8年で現時点になります。

 

 

 

この人生の岐路は、あまり人気のないシリーズだったかも知れませんが、時系列にしたので、一旦始めると止められないものでした。

 

 

 

このシリーズは最後まで行きます。

 

 

 

 

国税局は、色々とありましたが、私は後に尾を引くのが嫌いですので、その納税を終わらせて終了となりました。

 

 

 

 

ピンチの後にはチャンスあり、こう考えるのは私の癖です。

 

 

 

 

翌年、いきなり本拠地を移転する!と幹部達へ伝えました。国税局が終わったばかりなのに、えっ~! という声もありましたが、そう内部に移転を通達しました。

 

 

 

 

 

幹部には、丸の内 で探すように指示しました。「丸の内の10丁目でも結構だ、丸の内の地名にしたい」こう伝えました。

 

 

 

 

その後で、”社長、丸の内は3丁目までしかないんです・・・”という説明は受けましたが、とにかく探すんだ!と檄を飛ばしたことを覚えています。

 

 

 

 

 

そして、2001年(平成13年)の暮れの今頃だったと思いますが、今の本社所在地を見て、年明け早々に移転したのが、今の所在地です。

 

 

 

 

千代田区丸の内1-2-1 皇居和田蔵門の前、こういうイメージを優先したのが本音です。

 

 

 

ちなみに、皆さんに本社の住所を伝えると、”あ~あの新丸ビルの裏ね・・・”といわれるのです。

 

 

 

皇居が表ですので、私どもの入居しているビルの裏に新丸ビルがあるんです。<笑>

 

 

 

 

丸の内への移転は、大きな岐路の1つだったと思います。 


私は、常に、正直、という生き方をしたいと考えています。

 

 

 

色んな判断も、これに基づいてやるように決めています。

 

 

 

 

確かに、何でもただ正直であれば良い、そんなことは考えていませんが、これを見失うと、どこへ行って良いのか分からなくなります。

 

 

 

 

正直に、これを再認識したのが、2001年(平成7年)の国税局の調査でした。

 

 

 

 

今夜は、この辺を綴りたいと思います。

 

 

 

 

人生の岐路  パート 15

 

 

 

前号では、東京に出てきた頃までを綴りました。

 

 

 

 

千代田区麹町(半蔵門駅の上)に拠点を構え、広島、北海道、名古屋、仙台、京都と急ピッチで進出を繰り返しました。

 

 

 

 

もう寝る間も惜しい時期でした。

 

 

 

 

そして、長年借金に苦しんだ状態から抜け出したと思えば、即各地への猛烈な進出です。投資、投資と、無い資金を搾り出しての投資でした。

 

 

 

 

もちろん、私の時間もフルに投資しました。

 

 

 

 

そして、37歳の時に高額納税者(九州、四国、中国地区)で37位に公開されたこともありました。忙しくて、出張先での食事は、すべて好物のファーストフードでしたので、収入が多いという感覚が全くない状態でした。

 

 

 

 

当社なりの快進撃は続き、39歳の時に国税局が全事業所へ一斉に調査に入りました。

 

 

 

 

朝、7時30分頃だったと思いますが、妻から電話があり、国税局の方が来られています・・・と自宅から出張先に電話があり、それと同時に各地の責任者からも電話が入りましたので、当局は相当数の人員を用意されていたと思います。

 

 

 

それから決着が付くまで、約3ヶ月間の調査を受けました。

 

 

 

 

私は、調査対応より進出だ!と必要な時以外には会社へ戻らず、出張を繰り返し、各地でテナント探し、講師面接と研修、こんなことをやっていました。

 

 

 

 

調査は進み、当時の会計担当者が ”あなたの会社の代表者は分かっているの?” という質問もあったそうです。

 

 

 

 

しかし、では会社に居れば何か良いことがあるのか?調査が捗るのか?その辺も考えて、出来るだけ気にせずに、今やること、やらなければいけないこと、をやっていたというのが正直な気持ちでした。

 

 

 

 

そして、最後の日、思い知ったのです。当局との考え方の違いです。当局からの指摘事項はすべて認め、幹部達を集めて事情を説明し、すぐに修正申告と納税を行いました。

 

 

 

 

その額が額でしたので、新聞に載るのでは・・・、と周囲の方が心配してくださいましたが、そんなことより、各地のテナント契約はOK出たか?講師の応募状況は?と気になって電話をしながら最終の話を聞いていた記憶があります。

 

 

 

 

心配していただいていた新聞には載りませんでしたが、私には自信がありました。それは、私は一度たりとも会社の収入を自分のポケットに入れたことはない、ということです。

 

 

 

 

それで思い知って再認識したのです。見解の差はあっても、正直に、それまで通りに行こう、と強く改め直した出来事でした。

 

 

 

 

 

そのおかげで、その翌年の高額納税者の公表では、山口県のユニクロ柳井社長の2つ下で4位にまで上がりましたが・・・・<苦>

 

 

 

 

皆さん、ご存知ですか?税金は行為否認された翌日から延滞税が掛かるのです。

 

 

 

具体的には、入金になった日を起算日として、年率13%ほどだったと思いますが延滞税が加算されます。その元になる額が大きいほど多くなります。

 

 

 

鳩山総理ご兄弟は、幾らになるのかと心配しています。


最近、自宅療養をしていて感じることですが、つくづく「主婦」は大変だということです。

 

 

 

私は、今まで主婦は外部との利害関係はないし、ある意味では楽しい仕事だろう!と思っていたのです。しかし、これを改め訂正します。

 

 

 

 

本当に主婦の仕事は大変です。

 

 

 

 

要領よく、もの凄いスピードで動いています。朝の支度、子供の送り迎え、買い物、掃除、洗濯、なんと凄い段取りです。まさに段取り8割、仕事は2割、の素晴らしいプレーです。

 

 

 

あの仕事を金銭換算すると、もの凄い金額になると思います。

 

 

 

 

 

人生の岐路  パート 14

 

 

大阪から東京へパラシュートで降りた状態で上京したのは、1995年(平成7年)でした。とりあえず親戚を頼り、数日間お世話になって中目黒の3DKのマンションに入居しました。

 

 

 

 

今ではそう難しいことではありませんが、当時はマンションもなかなか貸してもらえませんでした。

 

 

 

 

あなた経営者?どんな会社?収入は?保証人は?幾つなの?どうして経営者が上京するの?と経営者だから貸してもらえない、会社の名前も知らないからダメ、人相が悪い・・・関係ないだろう!!!でもダメでした。

 

 

 

 

その物件が気に入ったからというのは、その次でした。今では考えられない世界です。

 

 

 

 

そして、どうにか貸してもらえたマンションに入居し、家具や電化製品をすべて同年の年末支払いで買い揃え、東京での生活が始まりました。全額ローンで買ったばかりの福岡のマンションは、そのままにしていました。

 

 

 

 

ある意味、東京で失敗すれば福岡に帰れば良い、こんな甘い心理もあったと思います。

 

 

 

 

8月に上京したのですが、11月までの3ヶ月間は、東京の調査をしながら過ごしました。その間に、大阪へ出張したり、福岡へ出張したり、朝6時の新幹線と、朝一番の飛行機は常連客でした。

 

 

 

 

 

そうして転機はここからです。

 

 

 

 

 

ある日、拠点をどうしようか?と探していた時に道に迷い、ガソリンも入れたいし、そう思って入ったガソリンスタンドが拠点開設のスタートになったのです。

 

 

 

 

 

それが麹町です。今でもたくさんの思いでがある良い街です。そして、今の NIHONWASOU USA 社長で、従兄弟の藤井健太郎との再会でした。

 

 

 

 

 

彼は、当時麹町の会社に勤務しており、”おー健太郎” 近くでお茶でもどうだ?と始まったのが、東京進出の第一歩でした。

 

 

 

 

 

それから、教室はどうしよう・・・と、色々と調べて始まったのが、「自由が丘教室」と「三軒茶屋教室」の2教室でした。確か、2教室合計でも 440名 ほどのご応募だったと思います。

 

 

 

 

社長さん、この「自由が丘」の賃料や保証金の相場は知っていますか?銀座より高いですよ・・・と女社長の一言は、キツイものがありました。

 

 

 

 

そうして起動した関東エリアです。資金もなく、いま考えると”無謀”の一言に尽きます。

 

 

 

 

 

その女社長とは、二年ほど前に、あの噂の秘書くんの行きつけだった自由が丘のカラオケスナックで出会い、私そんなこと言ったかしら・・・ということでした。ま~昔のことです。<笑>


当社が発行する会員向け会報誌 KOSODE で、株取引に興味がありますか?こういうアンケートを実施してみました。

 

 

 

そこで、興味深い結果が出ていました。

 

 

 

<設問1>株取引について興味がありますか?

 

 

興味あり    84,4%

興味あり、まだやっていない   15,2%

無回答    0,4%

 

 

 

<設問2> 日本和装が株式上場していることを知っていますか?

 

 

知っている   86,3%

知らない   12,9%

無回答   0,8%

 

 

 

<設問>日本和装の株主になってみたいと思いますか?

 

 

 

すでになっている    60,3%

検討したい    15,3%

その他    24,4%

 

(当社調べ)

 

 

なんと、有効回答者数の 60%以上 が、すでに株主になっていただいているようです。

 

 

 

ありがたい、本当にありがたい、と思っています。

 

 

 

病気をしている場合ではありません。出来るだけ早く復帰し、ご期待に応えたいと思っています。しかし、また無理をして同じ事を繰り返さないようにもしたいと考えています。

 

 

 

 

 

人生の岐路  パート 14

 

 

 

大阪は1月に移り住み、同年4月頃に初の教室を開講することが出来ました。吹田教室、高槻教室、茨城教室、の3教室でした。

 

 

 

 

セミナーは、私が10人乗りのワゴン車を運転してご案内していました。必死に開拓したメーカー様を皆様にご案内し、”このメーカー様は、素晴らしい技術を持っておられ・・・・”と必死でご紹介しました。

 

 

 

 

当時は、ご紹介するメーカー様の数も少なく、あの時に受講された皆さんには、今の加盟店様の商品をご覧いただきたい気持ちで一杯です。

 

 

 

 

 

そして、大阪だ!大阪だ!と勢い込んで乗り込んだのですが、その大阪には、1月から同年8月(約8ヶ月間)までしか居ませんでした。

 

 

 

 

 

妻は、大阪から福岡へ戻ると思っていたので、福岡の住居は、そのままにして大阪へ行っていました。

 

 

 

 

その大阪の住居は、賃貸マンションの中に、レンタルアコムで借りた14インチのテレビ、コタツ、布団、たんす、冷蔵庫、と下宿のような生活でした。

 

 

 

 

そしてある日、妻と3歳と1歳になる娘を前に、家族会議をするので・・・・と私の気持ちを伝えたのです。

 

 

 

「東京へ行きたい」 東京で勝負したいと、私の気持ちを打ち明けました。すると妻は、福岡で買ったばかりの家は?と一言だけ聞いただけで、じゃー東京ね・・・と即賛成してくれ、数週間後に東京へ向かいました。

 

 

 

 

もうパラシュートで降りるようなものでした。

 

 

 

 

東京へ、これも私の大きな岐路の1つでした。 (当時32歳、妻30歳の時でした)


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